「人的資本経営」を制度で終わらせないために——実装ステップと人事の役割
経営参画・数字

「人的資本経営」を制度で終わらせないために——実装ステップと人事の役割

#1on1#エンゲージメント#採用#研修#組織開発

「人的資本経営」を制度で終わらせないために——実装ステップと人事の役割

「人的資本開示の書類は作ったんですが、正直それで終わってしまっていて……」

2023年以降、大企業を中心に「人的資本開示」への対応が急速に進んでいます。でも開示書類を作ること自体が目的になってしまい、「人的資本経営」の本質——人材を最大の経営資源として戦略的に活かすこと——には至っていない組織が多いのが現状ではないでしょうか。

開示は「手段」であり、「目的」ではありません。人的資本経営の本質は、「人と組織への投資が、どのように事業成果につながっているかを可視化し、継続的に改善していくこと」です。この記事では、人的資本経営を「実装する」ための考え方と実践的なステップをお伝えしたいと思います。


なぜ人的資本経営の実装は難しいのか

「開示」と「経営の実態」が乖離している

人的資本開示の書類に書かれていることと、実際の経営判断・人事施策が連動していないケースは多い。「開示用に整えた数字」と「経営会議で実際に見ている数字」が別になってしまっている状態です。

これは「開示を外部向けのPR文書として作ってしまった」ことが原因です。人的資本開示が本来持つべき意義は「ステークホルダーへの説明責任」だけでなく、「経営陣が人への投資の成果を真剣に考える機会を作ること」です。この二つが連動していないと、形式的な開示で終わります。

「人事の話」と「経営の話」が分断されている

人的資本経営が根付かない背景には、「人事は人事のことを、経営は経営のことを考えている」という分断があります。

人事担当者が「従業員エンゲージメントを高めたい」と言い、経営者が「売上を上げたい」と言う——この二つは本来つながっているはずなのに、異なる言語で語られているために連動しない。「従業員エンゲージメントが10%向上すると、生産性が○%向上し、売上に○億円の影響がある」という形で語れなければ、経営は動きません。

「経営者の第一言語は数字。その言語で語れなければ経営のテーブルに座れない」という言葉がありますが、人的資本経営はまさに「人事の言語を経営の言語に翻訳する」実践です。

KPI設計の難しさ

人への投資の効果は、即座には数字に表れません。教育研修費を増やした効果が売上に反映されるまでには、タイムラグがあります。また、「人への投資の成果」は多くの要因が絡み合っており、単一の施策との因果関係を証明することが難しい。

この難しさから、KPIを設定しても「意味のある指標」になっていないことがあります。「研修受講率」「1on1実施率」など「施策の実行率」だけを追っていて、「事業成果への貢献」が見えていない、というパターンです。


よくある失敗パターン

失敗パターン1:開示書類作りで燃え尽きる

年一回の開示に向けて膨大なエネルギーを使い、開示後には「一段落した」という意識になってしまう。人的資本経営は年次の開示イベントではなく、常時の経営プロセスとして動き続けるものです。

失敗パターン2:人事だけが取り組んでいる

人的資本経営を「人事部門のプロジェクト」として進めてしまい、経営陣・事業部との連携がない。経営陣が「人的資本を経営課題として捉えている」という状態でなければ、人事がどれだけ頑張っても変化は生まれません。

失敗パターン3:数字を集めるだけで、改善サイクルが回らない

開示用のKPIを設定してデータを集めているが、そのデータを使って「何を改善するか」の議論が行われていない。データは収集するだけでは価値を持ちません。「データを見て、何を変えるか」という改善サイクルがあって初めて意味を持ちます。


プロの人事はこう考える——人的資本経営の実装ステップ

知る:自社の「人的資本の現在地」を可視化する

人的資本経営の第一歩は、「自社の人と組織の現状を多面的に把握すること」です。

ISO 30414(人的資本に関する国際規格)が定める11のカテゴリ(コンプライアンス・倫理、採用・異動・離職、エンゲージメント、健康・安全・幸福、多様性・インクルージョン、リーダーシップ、生産性、スキル・能力、テクノロジー・プロセス、報酬、人材育成)を参考に、自社で把握できているデータと、把握できていないデータを整理する。

全部が「できている」必要はありません。「どこに課題があるか」を知ることが目的です。この棚卸し作業を経営陣と一緒にやることで、「人材の課題を経営課題として認識してもらう」きっかけになります。

考える:「人材戦略」と「事業戦略」のつながりを設計する

人的資本経営の核心は、「事業目標を達成するために、どんな人材が、どれくらい、どんな状態で必要か」を明確にすることです。

事業計画と人材計画を連動させる「人材マテリアリティ(重要課題)」の特定が、実装の鍵になります。たとえば「3年後に新規事業を立ち上げる計画があるなら、今から○人のリーダー候補を育成する必要がある」という具体的な接続です。

「経営数字からの発想×組織状況からの発想=両利きの人事」という考え方で、事業計画の数字から人材ニーズを逆算し、現在の組織の状況から課題を把握する——この両方の視点が、実効性のある人材戦略を生みます。

動く:小さなKPIから改善サイクルを回す

一度に完璧なKPI体系を構築しようとすると、現実から乖離します。最初は「3つのKPI」から始めることをお勧めします。

例:最初の3つのKPI

  1. エンゲージメントスコア(会社・チームへの関与度)
  2. スキル充足率(業務に必要なスキルが充足されている社員の割合)
  3. 重要ポジションの継承準備度(後継者候補が育っているポジションの割合)

この3つを四半期に一度経営会議で報告し、「何が改善したか」「何が課題か」「何をするか」を経営陣と対話する。このサイクルを回し続けることで、人的資本経営が「経営プロセス」として機能するようになります。

「経年変化を眺める→アイディア→人事施策→費用対効果→選択」という5ステップが、人的資本経営の改善サイクルそのものです。数字を眺め続けることで、施策の発想が変わります。

振り返る:投資対効果を語れるようにする

人的資本経営の成熟度が上がると、「人材への投資と事業成果の相関」を語れるようになります。

「研修投資を○%増やした翌年、定着率が○%向上し、採用コストが○円削減できた」「管理職研修の実施後、部署のエンゲージメントスコアが○ポイント向上し、生産性指標も○%改善した」——こういう語り方ができると、経営陣の「人材投資への理解」が格段に深まります。

完璧な因果関係の証明は難しくても、「相関の傾向」を示すことで経営対話は変わります。「施策の効果は売上伸長・コスト削減・リスク低減の3つで整理する」という視点で、各人材施策の効果を整理していくことが、人的資本経営の実装を深めていきます。


明日からできる3つのこと

1. 自社の人材KPIを3つだけ選んで、前年比較してみる(今週中に)

エンゲージメントスコア、離職率、採用充足率など、今すぐデータが取れる指標を3つ選んで、前年との変化を確認する。「どこが改善し、どこが悪化しているか」を把握することが出発点です。

2. 事業計画と人材計画のつながりを一枚の図にしてみる(今月中に)

「事業目標を達成するために必要な人材の状態」と「現在の人材の状態」のギャップを一枚の図に整理する。これを経営陣と共有するだけで、対話の質が変わります。

3. 次の経営会議で人材KPIを議題にするよう提案する(来月中に)

「人的資本の現状と課題を四半期ごとに経営会議で報告したい」と提案する。経営会議の議題に入ることで、人的資本が「経営課題」として扱われるようになります。


まとめ

人的資本経営は「開示書類を作ること」ではなく、「人材への投資と事業成果を継続的に連動させる経営の仕組み」です。制度を整えることよりも、「小さなサイクルを回し続けること」の方が重要です。

「すべての組織に人事のプロを」という言葉があります。人的資本経営の実装において、人事のプロの役割は「人材の数字を経営の言語に翻訳し、経営と人材を接続し続けること」だと思っています。

最初から完璧な体系を作ろうとせず、3つのKPIから始めて、経営との対話を積み重ねていく。その地道なプロセスが、5年後に「人と事業が本当につながった経営」を生み出します。


人的資本経営・経営参画を深く学びたい方へ

▼ 人事のプロ実践講座(経営数字と人材戦略を連動させる実践プログラム) 講座の詳細・申込みはこちら

▼ 人事図書館(人的資本・経営参画に関する実践知識とコミュニティ) 人事図書館の詳細・入会はこちら


本記事は、吉田洋介著『「人事のプロ」はこう動く 事業を伸ばす人事が考えていること』の思想に基づいて執筆しています。

吉田洋介

人事図書館 代表 / 著書『「人事のプロ」はこう動く』

リクルートマネジメントソリューションズで14年間・500社以上の組織人事コンサルティングに従事。 上海駐在を経て2021年に独立。2024年に人事図書館を設立(会員740名超)。 「すべての組織に人事のプロを」を理念に、経営と現場をつなぐ人事の実践知を発信している。

著者の実践講座を見る →
0

経営視点で考える人事の実践力を磨きませんか?

書籍『「人事のプロ」はこう動く』著者による実践講座。現場で使える経営視点の人事力を身につけます。

関連記事

ピープルアナリティクスを「データを集めること」で終わらせないために
経営参画・数字

ピープルアナリティクスを「データを集めること」で終わらせないために

人事データを活用して意思決定の質を上げたい——この思いでピープルアナリティクスへの取り組みを始める企業が増えています。でもデータを集めたが、どう使えばいいかわからない分析ツールを導入したが、誰も使っていないという状態になっているケースも多い。

#エンゲージメント#採用#評価
人事チャットボットを「よくある質問への回答機」だけにしない
経営参画・数字

人事チャットボットを「よくある質問への回答機」だけにしない

社員からの問い合わせ対応の負担を減らしたい——この課題からチャットボット導入を検討する人事担当者が増えています。有給の申請方法は?育児休業の取り方は?といった定型的な質問への自動回答は、人事の業務負担を軽減する有効な手段の一つです。

#エンゲージメント#評価#組織開発
人事のKPI設定が「採用人数だけ」になっている組織は危ない
経営参画・数字

人事のKPI設定が「採用人数だけ」になっている組織は危ない

今期の採用目標は何人ですか?——人事部門の目標を聞かれると、多くの場合採用○名という数字が返ってきます。採用担当者のKPIが採用人数になっている組織は珍しくありません。

#1on1#エンゲージメント#採用
HR ROIを計算できる人事が、経営のパートナーになれる
経営参画・数字

HR ROIを計算できる人事が、経営のパートナーになれる

人事の施策がどれだけ効果があるのかわからない——経営側からこう言われたことがある人事担当者は少なくないと思います。逆に人事の側も自分たちの仕事の価値をどう証明すればいいかわからないという悩みを持つことがあります。

#1on1#エンゲージメント#採用