
賃金テーブルの見直し——「なんとなく上げる」からの脱却
賃金テーブルの見直し——「なんとなく上げる」からの脱却
「毎年の昇給をどう決めているか聞かれると、正直『慣例で』としか言えない」「採用競合他社と比べると自社の給与水準が低いのはわかっているが、どう直せばいいかわからない」——そんな悩みを持つ人事担当者は少なくないと思います。
賃金テーブルの見直しは、人事制度改革の中でも最も政治的で、最もデータが必要で、最もステークホルダーが多い領域です。でもここを変えないと、採用競争力・社員のモチベーション・人件費の最適化が同時に損なわれます。
この記事では、賃金テーブルの見直しを進めるための考え方と実践をお伝えします。
なぜ賃金テーブルの見直しは進まないのか
構造的原因1:「変えると既存社員に影響が出る」という恐れ
賃金テーブルを変えると、現在の水準が変わる可能性があります。特に「下方修正が必要な部分」に手をつけることへの恐れが、見直しを阻みます。経営も現場も「ここは触れないでおこう」という暗黙の了解が生まれやすい。
でも現実には、既存社員の現在の給与を下げることは法律上も倫理上も難しく、多くの場合は「現在の水準は維持し、これからのルールを変える」という設計になります。この原則を理解していれば、恐れる必要はありません。
構造的原因2:市場データとの比較がなされていない
自社の賃金テーブルが「市場と比べてどの位置にあるか」を把握していないケースが多い。「大手と比べたら低い」という感覚的な認識があっても、業種・規模・職種・地域が近い企業との比較データがなければ、具体的な改善案が作れません。
賃金調査データ(厚生労働省の賃金構造基本統計調査・民間の賃金サーベイ)を活用して「自社のポジション」を客観的に把握することが出発点です。
構造的原因3:賃金の「目的」が整理されていない
賃金には複数の目的があります。①生活保障(最低限の生活ができること)②仕事への報い(職務・成果への対価)③市場競争力(優秀な人材を採用・引き留めること)④モチベーション(頑張ることへの動機づけ)——これらが混在した設計になっていると、「何のための賃金か」が社員に伝わらず、いくら上げても効果が薄くなります。
よくある失敗パターン
失敗1:一律昇給で毎年なんとなく上げる
「全員2%昇給」という一律対応は、公平に見えて実は成果への連動が薄く、高パフォーマーが不満を感じる構造になりがちです。「頑張っても頑張らなくても同じ」という感覚は、エンゲージメントを下げます。
失敗2:管理職の方が現場のスペシャリストより給与が高い前提を疑わない
管理職昇進を唯一の昇給ルートにしている設計では、「マネジメントに向いていない(または望まない)優秀な専門職」が処遇されにくくなります。スペシャリストのキャリアパスと報酬を分けた設計(デュアルキャリアトラック)が、専門職の定着に有効です。
失敗3:採用時に「特別に高い給与」を出すと既存社員との逆転が起きる
「採用市場が変わったので、中途採用者には高い給与を設定した」結果、既存社員より高い給与の中途社員が入社し、既存社員の不満が爆発するケースがあります。採用給与の変更と既存社員の給与見直しは同時に考える必要があります。
プロの人事はこう考える
知る:賃金の3つの要素を分解する
賃金テーブルを見直す前に、現在の賃金の構造を理解することが先決です。
多くの企業の賃金は「基本給」「諸手当」「賞与」で構成されています。
基本給:能力・等級・役割に連動して毎月支払われる部分。年収の安定基盤。 諸手当:通勤・住宅・家族・職能手当など。生活補助的な意味合いが強い。 賞与:業績や評価に連動して年2〜3回支払われる部分。業績反映の弁として機能。
この構造のどこが「市場競争力」を損なっているかを把握することが、見直しの起点になります。
考える:3ステップで見直しを進める
賃金テーブルの見直しは、一度に全部変えようとせず3つのステップで進めます。
Step1「現状把握」:現在の賃金テーブル・全社員の賃金分布・市場サーベイとのギャップ・採用時の困難状況を整理します。
Step2「課題の優先付け」:「採用できない」「既存社員が辞めている」「高パフォーマーに報えていない」「特定職種の市場価格が変わった」という課題のうち、最も事業への影響が大きいものを優先します。
Step3「改定案の設計と影響シミュレーション」:改定案を作り、「全社員に適用した場合の人件費増加額」「誰の給与がどう変わるか」をシミュレーションします。このシミュレーションがあると経営への説明が具体的になります。
動く:市場サーベイデータの取得から始める
まず「自社の給与は市場と比べてどの位置にあるか」を数字で把握します。
活用できるデータ:
- 厚生労働省「賃金構造基本統計調査」(無料・業種・規模・職種別)
- 民間賃金サーベイ(リクルート・マーサー・タワーズワトソンなど)
- 求人情報サイトの給与帯(リアルタイムの市場感覚把握に有用)
- 採用活動中の候補者からの「希望年収」「現在年収」のデータ蓄積
これらのデータを組み合わせると「自社が市場の中央値より低いか高いか」「特定職種でギャップが大きいか」が見えてきます。
振り返る:見直し後の採用・定着への効果を測る
賃金テーブルを見直した後、「採用時の内定承諾率が変わったか」「特定層の離職率が変化したか」「社員満足度調査での報酬満足度が変わったか」を追跡します。賃金改定のコストに見合う効果があったかを数字で確認することで、次の改定の根拠が作られます。
明日からできる3つのこと
1. 自社の賃金分布グラフを作る(1〜2時間)
全社員の基本給を等級別・年齢別・入社年次別で分布グラフにします。「年功的な形になっているか」「同じ等級でも給与の幅が大きいか」「若手と中堅の差が小さすぎないか」が視覚的に把握できます。
2. 採用できなかったポジションの「落選理由」を集める(1時間)
直近半年で採用に苦労したポジションについて、「候補者が内定を辞退した理由」または「応募が少なかった理由」の中に給与水準が関係しているかを確認します。これが改定の優先順位を決める根拠になります。
3. 市場サーベイの一つ(厚労省の調査など)を使って自社の位置を確認する(2時間)
厚生労働省の「賃金構造基本統計調査」で自社の業種・規模に近いデータを調べ、自社の平均賃金が市場の中央値・75パーセンタイルと比べてどの位置にあるかを確認します。この客観的データが、経営への報告の根拠になります。
まとめ
賃金テーブルの見直しは「今の社員を幸せにするため」だけの話ではありません。「事業の成長に必要な人材を採用・定着させるための投資効率」の問題でもあります。
「施策の効果は売上伸長・コスト削減・リスク低減の3つで整理する」という考え方があります。賃金見直しも同じです。「適切な賃金設計が採用コストを下げ、離職コストを減らし、人材の質を高めて売上に貢献する」という経営言語で語ることが、賃金改定の議論を前に進めます。
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吉田洋介
人事図書館 代表 / 著書『「人事のプロ」はこう動く』
リクルートマネジメントソリューションズで14年間・500社以上の組織人事コンサルティングに従事。 上海駐在を経て2021年に独立。2024年に人事図書館を設立(会員740名超)。 「すべての組織に人事のプロを」を理念に、経営と現場をつなぐ人事の実践知を発信している。
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