
「給与がオープンになったら大変なことになる」は本当か——給与透明化と人事の役割
目次
「給与がオープンになったら大変なことになる」は本当か——給与透明化と人事の役割
「うちで給与公開なんてしたら、絶対に揉めますよ」
給与透明化の話をすると、多くの経営者・人事から返ってくる言葉がこれです。確かに、給与に関する情報はセンシティブで、扱い方を間違えると職場の不満や不公平感を増幅させるリスクがあります。
一方で、欧米では給与帯の開示を義務化する法律が相次いで整備されており、日本でも「求人票への給与帯記載」が当たり前になってきています。候補者が「給与がわからない会社には応募しない」という判断をするケースも増え、採用競争において給与透明化は避けられないテーマになりつつあります。
この記事では、給与透明化とは何か、なぜ難しいのか、人事としてどう設計するかを考えてみたいと思います。「オープンにすれば万事解決」でも「触れてはいけないタブー」でもなく、段階的に向き合っていくための視点をお伝えします。
なぜ給与透明化は難しいのか
「給与は個人の秘密」という文化的な背景
日本の職場には、「給与は個人の秘密であり、他人に話すことはマナー違反」という文化が根強くあります。労働法上は給与についての話し合いを禁止することはできませんが、「暗黙のルール」として「聞かない・言わない」が徹底されている組織は多い。
この文化的背景の中で給与透明化を進めようとすると、「文化の変革」が必要になります。これは制度の導入よりはるかに難しく、時間もかかります。
現在の給与が「説明できない状態」にある
給与透明化が進まない最大の理由の一つは、「今の給与設計が説明できない状態」にあることです。
長年かけて積み上がった年功賃金、入社時の交渉結果、前社の給与に引きずられた設定、マネジャーの裁量による調整——様々な要因が積み重なって、「なぜこの人がこの給与なのか」を人事自身が説明できない状態になっていることがあります。
「給与を公開したら、説明できない不合理が露わになる」という恐怖が、透明化を阻んでいるケースは少なくないと思います。
透明化の「程度」が未定義のまま議論されている
「給与透明化」と一口に言っても、幅があります。
- 給与帯(バンド)を採用時に開示する
- 職種・グレード別の給与レンジを社内に公開する
- 全社員の給与額を全員が見られる状態にする
- 賃金決定のロジックを文書化して全員が閲覧できる
どのレベルの透明化を目指すのかによって、必要な準備も、リスクも、効果も変わってきます。「透明化」という言葉を曖昧なままにして議論しても、実践に結びつきません。
よくある失敗パターン
失敗パターン1:透明化の前に「合理性の設計」をしていない
給与帯を公開した途端に「なぜ自分はこの帯の下限なのか」という問い合わせが殺到して収拾がつかなくなった——これは「賃金の説明ロジック」を整備せずに開示してしまった失敗です。公開の前に「なぜこの給与になるのか」を説明できる評価・等級体系の整備が必要です。
失敗パターン2:透明化で「格差の露呈」が不満に転化する
給与情報をオープンにしたことで、同じ職種・同じ勤続年数なのに給与に差があることがわかり、不満が爆発した。差に合理的な説明がなければ、透明化は不満のガソリンになります。
失敗パターン3:制度だけ変えて対話をしない
「給与帯を掲示しました」で終わってしまい、社員が「自分のどこを改善すれば上のバンドに上がれるのか」がわからない状態。透明化は「開示」で終わりではなく、「給与に関する対話を促進する」ことが目的です。制度だけでなく、キャリア面談や評価面談での対話設計が必要です。
プロの人事はこう考える——給与透明化の段階的アプローチ
知る:自社の給与の「現在地」を把握する
まず始めるべきは、現在の自社給与の「実態の棚卸し」です。
同じ職種・同じグレードの社員の給与分布を確認する。年齢・性別・入社経路(新卒/中途)による偏りがないかを確認する。市場水準との比較(給与調査データを使う)をする。
この作業をすることで、「開示できる状態にあるか」「開示するために整備が必要な部分はどこか」が見えてきます。多くの場合、ここで「給与の非合理性」が発見されますが、それは「問題の発見」であり、解決に向かうための第一歩です。
考える:段階的な透明化ロードマップを設計する
給与透明化は一度に進めるのではなく、段階的に設計することをお勧めします。
ステップ1(採用時の開示):求人票や選考プロセスで給与帯を開示する。これは候補者への誠実さであり、採用競争力にも直結します。
ステップ2(社内での賃金ロジック開示):「どのグレードにいると、何の基準でどの給与レンジになるか」を社内文書として整備し、全社員が閲覧できる状態にする。
ステップ3(個人の給与に関する対話の促進):年1〜2回のキャリア面談で「自分の給与がどこにあるか」「上のバンドに上がるために何が必要か」を話し合う場を設ける。
この3ステップを3〜5年かけて進めていくイメージが現実的だと思います。いきなり全員の給与を公開することを目指す必要はありません。
動く:「説明できる給与設計」の整備から始める
透明化の前提として、「賃金決定のロジックを言語化する」作業が必要です。
- どのグレード(等級)に、どの給与レンジが対応するか
- グレードを上がる基準(評価・スキル・成果)は何か
- 同じグレード内での差異はどう生まれるか
この「賃金の説明ロジック」を文書化するプロセスは、人事にとっても「自社の賃金の合理性を問い直す」機会になります。説明できないところが見つかれば、それを整備する。この作業が「透明化の基盤」を作ります。
「経営数字から発想する」観点でいうと、給与透明化は採用コストの削減(候補者の入社後ギャップ減少)、離職率の低下(不公平感による退職防止)、エンゲージメントの向上(給与への納得感)という形で経営数字に影響します。「なぜ透明化に取り組むか」を経営数字で語れると、経営の理解と支援を得やすくなります。
振り返る:透明化の効果を測定する
給与透明化の効果は、採用の承諾率・辞退率の変化、エンゲージメントサーベイの「公平性」「評価への納得感」スコアの変化、中途採用での「給与への懸念」件数の変化などで測定できます。
短期的には「揉め事が増える」と感じるかもしれませんが、それは「今まで見えていなかった問題が表面化した」ことでもあります。問題が見えることは、解決に向かえるということ。透明化は「問題を生む」のではなく「問題を可視化する」ものです。
明日からできる3つのこと
1. 採用求人票に給与帯を記載する(今すぐ)
「給与:応相談」という記載をやめ、「給与:〇〇〇万円〜〇〇〇万円(グレード・経験による)」という形で帯を記載する。これだけで候補者への透明性が格段に高まります。
2. 社内の給与分布を人事内部で把握する(今月中に)
職種・グレード別の給与分布を一覧化し、「説明のつかない差異」がないかを確認する。この内部把握から、整備すべき課題が見えてきます。
3. マネジャーに「部下の給与をどう説明するか」を考えてもらう(来月から)
マネジャー向けに「自分のチームメンバーの給与について、本人から聞かれたらどう説明するか」を考えてもらう機会を設ける。答えられないところが、賃金制度の整備課題です。
まとめ
給与透明化は「怖いもの」でも「遠い理想」でもなく、段階的に取り組める「経営と人事の信頼関係づくり」だと思っています。
「説明できる給与設計」を作ることは、人事の基礎体力をつけることに直結します。候補者への誠実さ、社員への公平感、経営への説明責任——これらはすべて、給与の「合理性と透明性」から生まれます。
「誰も犠牲にならない組織を当たり前に」という思いを持つなら、給与に関しても、「知らないまま我慢している人がいない」状態を目指したい。そのための一歩を、人事が踏み出すことが大切だと思っています。
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本記事は、吉田洋介著『「人事のプロ」はこう動く 事業を伸ばす人事が考えていること』の思想に基づいて執筆しています。
吉田洋介
人事図書館 代表 / 著書『「人事のプロ」はこう動く』
リクルートマネジメントソリューションズで14年間・500社以上の組織人事コンサルティングに従事。 上海駐在を経て2021年に独立。2024年に人事図書館を設立(会員740名超)。 「すべての組織に人事のプロを」を理念に、経営と現場をつなぐ人事の実践知を発信している。
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