
人的資本開示に、人事はどう向き合えばいいのか
目次
- 「人的資本開示」が求められる背景
- 「人は資産である」という考え方のシフト
- 投資家・社会からの要請
- 人的資本開示でよくある誤解
- 誤解1:「開示さえすれば良い」という義務感
- 誤解2:「指標を作ることが目的」になる
- 誤解3:「競合他社と同じ指標を開示する」という横並び思考
- プロの人事はこう考える:人的資本開示の向き合い方
- 「戦略ストーリー」を語れるかが問われている
- ISO 30414を参考にしながら、自社に合った開示を設計する
- 開示をきっかけに「人材戦略の質」を上げる
- 明日からできる3つのこと
- 1. 「経営戦略と人材戦略の連動」を1ページで整理してみる(所要時間:2〜3時間)
- 2. 「今すでに持っているデータ」を棚卸しする(所要時間:1〜2時間)
- 3. 他社の人的資本報告書を2〜3社読む(所要時間:2〜3時間)
- まとめ:人的資本開示は「人事が経営に語るための言語」
- もっと深く学びたい方へ
人的資本開示に、人事はどう向き合えばいいのか
「人的資本開示、うちも対応しなければと思っているんですが……」「何を開示すればいいのかわからなくて」——2023年の有価証券報告書への人的資本情報の記載義務化以降、この話題を避けて通れなくなった人事の方が増えています。
でも「開示対応」という言葉だけが一人歩きして、「何のための開示なのか」という本質が後回しになっているケースも少なくありません。
ある上場企業の人事部長から、こんな話を聞きました。「IR部門から『有報に人的資本の項目を追加しないといけないから、データを出してください』と言われて、あわてて数字を集めた。でも集めながら、『これって何のためにやっているんだろう』とモヤモヤした」と。義務だから対応するのか、本質的な価値があるから取り組むのか——この問いに向き合うことが、人的資本開示の出発点だと思っています。
今日は、人的資本開示の本質的な意味と、人事がどう向き合えばいいかについて一緒に考えてみたいと思います。
「人的資本開示」が求められる背景
「人は資産である」という考え方のシフト
従来の財務会計では、人件費は「コスト(費用)」として計上されます。でも近年、「人的資本(Human Capital)」という概念が注目されています。これは「人が持つスキル・経験・知識・能力は、組織にとって価値を生み出す資産である」という考え方です。
財務諸表に表れない「人的資産」をどう可視化し、投資家や社会に伝えるか——これが人的資本開示の本質です。
「人件費削減」という発想と「人材への投資」という発想では、組織の未来が全く変わります。「人は資産」という考え方が広まることで、人事の仕事の位置づけが変わっていくのだと感じています。経営において「人件費をどう削るか」ではなく「人材にどう投資するか」が問われるようになることは、人事にとってもチャンスです。
投資家・社会からの要請
ESG投資(環境・社会・ガバナンスを重視した投資)の広まりとともに、「その会社は人材をどのように育て、活かしているか」への投資家の関心が高まっています。
「この会社は人に投資しているか」「人材の定着率・育成状況はどうか」「多様な人材を活かしているか」——こういった情報が、企業の中長期的な成長力の指標として見られるようになっています。
従来は「財務数字が良ければ良い会社」という評価軸が主でしたが、今は「財務数字の裏にある人材の質・組織の健全性」を見る視点が加わっています。人的資本の充実は、企業の持続的な競争力の源泉であるという認識が広まっているからです。
人的資本開示でよくある誤解
誤解1:「開示さえすれば良い」という義務感
「有報に書く義務があるから書く」という姿勢だけでは、開示の価値が生まれません。
人的資本開示の本来の目的は、「社内の人材戦略の質を上げる」ことでもあります。「どんな情報を開示するか」を考えるプロセスが、「人材戦略がどれだけ経営戦略と連動しているか」を点検するきっかけになります。
「このデータを出してと言われたが、そのデータの意味を自分たちが説明できない」という状態は、「データを持っているが人材戦略のストーリーがない」という状態を反映しています。これは開示対応の問題ではなく、人材戦略の質の問題です。
誤解2:「指標を作ることが目的」になる
「離職率〇%、研修時間〇時間、女性管理職比率〇%」という数字を並べることが人的資本開示だと思われがちです。
でも重要なのは、「なぜその指標を選んだか」「その指標が経営戦略・人材戦略とどう連動しているか」を説明できることです。数字を作ることが目的ではなく、「経営戦略と人材戦略の連動性を伝えること」が目的です。
例えば「研修時間:年間20時間/人」という数字だけあっても、「なぜ20時間で良いのか」「どんな内容の研修に投資しているか」「研修の結果として何が変わったか」が説明できなければ、意味のある開示になりません。
誤解3:「競合他社と同じ指標を開示する」という横並び思考
「他社が開示しているから同じ指標を開示する」という横並びの発想では、自社の人材戦略の独自性が伝わりません。
「この会社は、この事業戦略を実現するために、こういう人材が必要で、だからこういう指標を大切にしている」という自社固有のストーリーが伝わることが、投資家・社会への良質な情報発信になります。
プロの人事はこう考える:人的資本開示の向き合い方
「戦略ストーリー」を語れるかが問われている
投資家が人的資本情報から知りたいのは、「この会社は人材に関してどんな戦略を持っていて、それがどう実行されているか」というストーリーです。
「当社の事業成長には〇〇な人材が必要です(なぜ)→ そのため〇〇の育成・採用に投資しています(何を)→ その結果〇〇の成果が出ています(成果)→ 次は〇〇に取り組みます(次への展望)」——この流れで語れるかどうかが、人的資本開示の質を決めます。
経営数字からの発想×組織状況からの発想=両利きの人事という考え方があります。人的資本開示においても、「経営戦略から逆算した人材戦略」と「組織の現状把握に基づいた具体的施策」の両方を示せることが重要です。
ISO 30414を参考にしながら、自社に合った開示を設計する
人的資本開示の国際標準として「ISO 30414(人材開示に関するガイドライン)」があります。倫理・コンプライアンス、ダイバーシティ、採用・異動・離職、健康・安全・ウェルビーイング、学習・開発など、11分野・58指標が示されています。
でも「全部開示しなければならない」ということではありません。自社の事業戦略・人材戦略と関連性が高い指標を選び、「なぜこの指標を重視しているか」を説明できることが大切です。
上場企業の義務対応としての記載事項と、投資家への任意開示として付加する情報は分けて考えることもできます。義務対応の最低限を満たしながら、自社が強調したい人材戦略の情報を加えることで、「義務」を「機会」に変えることができます。
開示をきっかけに「人材戦略の質」を上げる
人的資本開示への対応を、「人事の仕事の質を上げるきっかけ」として使うことができます。
「経営戦略と人材戦略は連動しているか?」「どんな人材が事業成長に必要か、言語化されているか?」「人材育成への投資は、経営として合理的な根拠があるか?」——人的資本開示の準備プロセスで、こういった問いに向き合うことになります。これが人事の専門性を高める機会になります。
「30年埋まっていない経営と人事の溝を埋める」という言葉があります。人的資本開示は、この溝を埋めるための、時代が作ってくれた機会かもしれません。
明日からできる3つのこと
1. 「経営戦略と人材戦略の連動」を1ページで整理してみる(所要時間:2〜3時間)
「当社の事業成長に必要な人材像は何か」「そのために人事は何をしているか」「どんな成果が出ているか」を1ページで整理してみましょう。これが人的資本開示の「戦略ストーリー」の骨格になります。
「うまく書けない」と感じたなら、「経営戦略と人材戦略が十分に連動していない」というサインです。そこが改善の出発点です。経営陣と「事業成長に必要な人材とは何か」について対話する機会を設けることが、次のステップになります。
2. 「今すでに持っているデータ」を棚卸しする(所要時間:1〜2時間)
離職率、採用充足率、研修時間、女性管理職比率、育児休業取得率——今すでに持っているデータを棚卸しすることで、「何が開示できて、何が取れていないか」が見えてきます。
「取れていないデータ」については、「今後取得する体制を整えるか」「開示の優先度が高いかどうか」を判断する必要があります。全部を一気に整備しようとするのではなく、「開示したいストーリーに必要なデータ」から優先順位をつけて取得体制を整えることが現実的です。
3. 他社の人的資本報告書を2〜3社読む(所要時間:2〜3時間)
自社の競合や、人的資本開示で先進的と言われる企業の報告書を読んでみましょう。「どんな情報を、どう開示しているか」を見ることで、自社の開示に何が足りないかが見えてきます。
先進企業の開示を読むと、「数字を並べているだけ」の企業と「ストーリーとして語っている」企業の違いが鮮明に見えます。「こういう開示ができるようになりたい」という目標が具体的になります。
まとめ:人的資本開示は「人事が経営に語るための言語」
人的資本開示は、義務だから対応する「コンプライアンスの仕事」ではなく、「人事が経営・投資家・社会に対して人材の価値を語るための機会」だと捉えてほしいと思っています。
「30年埋まっていない経営と人事の溝を埋める」という言葉があります。人的資本開示は、この溝を埋めるための、時代が作ってくれた機会かもしれません。人事が経営数字の言語を習得し、「人材への投資が事業成長につながっている」というストーリーを語れるようになること——これが人的資本開示の本質的な意義だと思っています。
義務対応を最低限こなすだけの開示から、自社の人材戦略を誇りを持って語る開示へ——この転換が、人事の仕事の質と価値を高めることにもつながると信じています。
もっと深く学びたい方へ
経営と連動した人材戦略を学びたい方には、「人事のプロ実践講座」がお役に立てるかもしれません。
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吉田洋介
人事図書館 代表 / 著書『「人事のプロ」はこう動く』
リクルートマネジメントソリューションズで14年間・500社以上の組織人事コンサルティングに従事。 上海駐在を経て2021年に独立。2024年に人事図書館を設立(会員740名超)。 「すべての組織に人事のプロを」を理念に、経営と現場をつなぐ人事の実践知を発信している。
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